優等生の苦悩

 

最近

「なぜそれをやるのか?」

という問いに答える機会が

何度かあった。

 

なにをするかよりも

どんな思いを持った

どんな人がやるのか。

 

それが大事な時代だしね。

 

 

ということで、改めて書いてみる。

 

 

私のすべての活動の土台は、

「人はみな生まれながらに価値ある存在」

「あるがままの自分が一番素晴らしい」

という価値観。

 

これをすべての人が実感して、

お互いにありのままのその人らしさを

素晴らしいと認め合い、

自分らしさを最大限に発揮して生きる。

そんな社会をつくりたいと思っている。

 

 

ではなぜ、

そういう社会をつくりたいと思ったのか?

 

 

それはもうひとえに

自分がずっと自分のことを

そんなふうに思えずに生きてきたから。

 

 

私は世間的には

いわゆる「普通」の人生だと思う。

 

両親がそろった家庭の

三人兄弟の長女として育ち、

特別裕福ではなかったが

食うに困るような経済状況でもない。

 

学校では

運動は苦手だったけど

勉強はむしろよくできる方で、

友達にも先生にも恵まれ、

いじめも不登校も経験せず、

部活も恋愛をアルバイトも

そこそこに楽しんできた。

 

就職するとなれば、

やりたいと思っていた

医療ソーシャルワーカーになれ、

恵まれた環境の職場で

まあまあ評価もされて働けた。

 

適齢になれば結婚して

多少の不妊傾向はあったものの

無事に妊娠出産もでき、

健康で育てやすい娘を育てている。

 

 

いたって「普通」

特に大きな悩みも問題もない。

 

むしろ「優等生」として

世間一般に評価されるものを

手に入れて生きてきた方だと思う。

 

 

 

けれど、

自己評価がすごく低かった。

自分に自信がなかった。

 

まさに

「ありのままの自分」なんて

価値がないって思って生きてきた。

 

 

だから、

「優等生」であること自体が

私にとっての唯一の自信だった。

 

それがない自分は価値のない自分。

価値のない自分にはなりたくないから

勉強も仕事も家事育児も頑張る。

 

 

自覚はしてなかったけど、

こうやって書いてみるとしんどい生き方。

 

 

砂の上にお城をつくって

それが倒れないように必死で

踏ん張っている感じ。

 

 

だから

何か失敗してしまうとか

何か失ってしまうとか

こわくてこわくて

失敗しないように

損しないように

あの手この手を駆使してきた。

 

スポーツにはチャレンジしない

安全圏の学校しか受験しない

お金は無駄遣いせず貯金

うまくいかなくなったら逃げる(笑)

 

自分がコントロールできる

評価を得られる分野や場所だけで

優位性を保って安心する。

 

やりたいことや好きなこと

自分の本音より

その立ち位置の方を優先していた。

 

 

「優等生」って言われる人の中に

こういう人少なくないんじゃないかな?

 

いわゆる「できない子」と「優等生」って

どちらも根っこは同じ

「ありのままの自分に自信がない子」で

その不安への対処方法が違うだけ。

 

 

ちなみに私の場合は、

育児と仕事でどうにもならなくなって

子どもが小さいときには

虐待すれすれレベルに𠮟りつけて

子どもには「トラウマ」と言われているし、

職場では周囲にパワハラと心配されるほど

厳しい指導の仕方しかできなくて

仕事を辞める一因になった。

 

 

でも、それで気づけた。

辛かったんだってこと。

しんどかったこと。

寂しかったり悲しかったこと。

不安だったこと。

 

 

だから、自分と同じような人たちに

その自己評価ちがうよって気づいてほしい。

土台を安心安全な強固な地盤にして

踏ん張る力をより素敵なお城をつくる

エネルギーに変えてほしい。

 

というか、自分自身も。

まだそこへ行く道のりの途中だと思っている。

 

 

自分を含めたすべての人が

本来もっている力を最大限発揮して

幸せに生きられるように。

 

これが

「優等生の苦悩」を抱えてきた私の

「なぜそれをやるのか?」の答えです。