「パラサイト 半地下の家族」

 

今日はなぜか映画二本立て。

 

今しがた観てきたのがこちら

 

 

ものすごく暗く重たいものを

引きずって帰ってくるはめになった。

 

 

私は、

自分の原家族の経済状況に対して

ずっとコンプレックスを抱いてきた。

 

20歳まで住んでいた家は

古くて狭い三軒長屋で、

家に友達を呼ぶなんて

恥ずかしくてとてもできなかった。

 

大学まで公立で自宅通いだった。

たまたまそうだったとも言えるけど、

それ以外の選択肢が可能だったのか

ハナから無理だと思いすぎて

考えたこともなかった。

 

当たり前のように高校生の時から

アルバイトもしていた。

 

 

とはいえ、本当のところ、

どれくらいお金があったのかなかったのか

正確なところはわからないのだけど。

 

家族旅行はあちこち連れて行ってもらったし、

何かをすごく我慢させられた記憶もない。

ただ単に、私が思い込んでいただけなのかも

しれない。

 

まあでも、裕福とは言えない家庭だったのは

間違いない話であって、

私がそれにコンプレックスを抱き続けたのは

まぎれもない事実。

 

今でも、

お金の使い方とか

マナーとか

ラグジュアリーな場所に行ったときに

自分は違和感なく存在しているのかとか

抱き続けているコンプレックスに

とらわれることがままある。

 

 

この夢も希望もない

後味の悪すぎる映画で、

一番リアルで、切ないなと思ったのは

巧妙にだましたように見えても

その貧しさを隠しきれなかったポイントが

「臭い」だったということ。

 

目に見えないし、

本人は気づかない。

でも、違う世界の人からは

明らかに「違い」を感じ取られてしまう。

 

染みついてしまっていて消えないもの。

自然にふるまうだけで出てしまうもの。

私が気にしているのもそんなものだろう。

 

 

この映画は、

出自の話をしているわけではなくて

リアルタイムの生活の話をしているのだけど、

自分のコンプレックスが刺激されてしまい、

結局、出自は変えられないのか、

住む世界が違う人同士の間には

越えられない壁があるのかと、

うっかり必要以上に暗い気持ちになってしまった。

 

 

ソーシャルワーカー的には

壁を越えるカギを握るのは、

やっぱり人とのつながりだと思う。

 

いろんな世界、

いろんな文化、

いろんな価値観の人と

いかに関係を築いて

自分の価値観を広げていくか

自分の世界を広くしていくか。

 

それを支援していくことも、

ソーシャルワーカーの役割の

ひとつなんだろうと思う。

 

 

というか、そうであってほしい。

壁は越えられるし、

違いがあっても交じり合える。

そういう社会であってほしい。

 

寄生ではなく

共生できる社会であってほしいし、

人はみな自分の望むように

よりよくなれると信じたい。

 

 

誰かのためにも。

自分のためにも。

 

そうであってほしい。

 

 

 

ちなみに、

朝いちばんに観た映画はこれ

 

 

 

 

こちらも深く感情を揺さぶられたけど、

愛と希望があったし、

ラストシーンは未来に向かっていた。

 

単純な私はそういう方が好きだ。

素直に未来は明るいものだと信じたい。

 

 

人として。

ソーシャルワーカーとして。