「普通」と自己肯定感の相関関係

 

先日、とある高校でケース会議に参加しました。

 

本人の抱えるしんどさが 

好ましくない行動に繋がってしまっていて、

関係の先生方と学校での対応法について

一緒に考える場でした。

 

その中で、 

この子についての先生方の見立てとして

「自己肯定感がものすごく低い」というのが

ありました。

 

それは決して否定的な意味ではなくて、 

それが彼のしんどさの原因の一つだろうから

なんとかしてあげたいという

温かいまなざしとしての見立てでした。

 

 

じゃあ、そんな彼に対して 

学校は何ができるか、どんな対応がいいかという

話をしていたわけなんですが、、、

 

 

彼は発達凸凹もあるし、興味関心の方向性も 

一般的な高校生とは話が合わなさそうな分野。

 

例えば、 

体育で自分の好きなサッカーをやるとなったら、

普段とは全然違うテンションで「イエーーーイ」って

なってしまって、周りの友達がひいちゃうとか。

 

趣味が少々マニアックで、 

そもそも話についてこられそうな人が少ないし、

人によっては眉をひそめる人もいたりとか。

 

 

先生方には全然悪気はないんだけど、 

自分の価値観とあまりに違うので、

理解して受け入れるということが難しい。

 

で、それはちょっとねえ・・・みたいな反応に 

どうしてもなってしまう。

 

 

でも、「自己肯定感」って 

ありのままの自分でいいという安心感や自信。

だとすると、

自分の素直な感情表現や興味関心を

認めてもらえないことこそが、

自己肯定感が高まらない原因の一つだよね。

 

 

だから、 

みんなと同じようにできないとか、

人と違う趣味嗜好があるとか、

リアクションが特徴的とか、

空気読めないとか、

いろいろあるけど、

「普通」からはみ出がちな人って

それだけで自己肯定感が低くなりがち。

 

 

特に今までの時代は「普通」を必要以上に 

求められていたところがあるから、

そこから脱線しちゃう子が、

ありのままの自分に自信を持つことって

さぞ難しいことだったろうと思う。

 

自分はそれこそ「普通に」生活しているつもりなのに、 

一事が万事、おかしいよって言われたり

叱られたり、笑われたりしてきたことの積み重ねが

今の彼の姿なのかもしれない。

 

 

または、本当の自分を隠して、 

なんとか周りと合わせる器用さを持ち合わせている

タイプも多いかもしれない。

そんな子は周りからは否定されないかもしれないけど、

自分らしく生きているわけではないから

やっぱり自己肯定感は高くはならないよね。

 

 

もう「普通」なんて価値のない社会に変容しつつあるし、 

そもそも、「普通」ってごく限定的なコミュニティにおける

限られた物差しでしかないのだから、

そんな物差しを用いて、人を判断するのはナンセンスすぎる。

 

 

どんな子どもも、どんな大人も、 

そのままでいいよって受けとめてもらえる安心感。

 

それが当たり前の社会を作っていくために、 

まずは自分を「普通」の物差しで縛らないこと。

 

結局、自分。やってこ。